キングスネーク伝説

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Legend of KingSnake

【ダンス・ホール】

 現在のクラブ、数年前のディスコのような店を30年前はダンス・ホールと言っていたと言えば良いだろうか。レコード音楽ではなく生バンドの演奏が聞ける店だ。
日本が太平洋戦争で連合軍に負けた為、マッカーサーを元帥とするアメリカ軍が日本へ進駐軍としてやってきたことで、戦前のジャズ・メンも演奏する機会が再び戻ってきた。進駐軍相手の仕事で息を吹きかえしたミュージシャン達は日本人からも当然歓迎されてきたが、時間と共に進駐軍の規模も縮小されてきた。彼らはジャズ・メンとして成功するか、さもなくば歌謡曲のバックで伴奏したり、キャバレーの専属バンドのメンバーになるか、音楽生活からアシを洗う事になるのだ。
アメリカ文化の浸透に伴いジャズばかりでなくカントリー&ウエスタンが我国に流入してきた。当然、レコードも発売され、ラジオでも流され始め流行り出す。
カントリー&ウエスタンは旋風を巻き起こし、若者達にはロカビリーへと受け継がれていき、ウエスタン・カーニヴァルへと発展していった。一方、ジャズ・メンが活躍していた所が大人の社交場であったダンス・ホールだったが、60年代に入ると、ダンス・ホールでもロックンロールが演奏されるようになり、少しづつ様相が変化していくのだ。
博多に有った新旧のダンス・ホールの名前を列記すると「慕情」「赤と黒」「ヤング・キラー」「フォーカス」「ナイト・パレス」「ハニー」「パロル桃山」「サンタナ」「ロック・ハウス」「ビッグ・トゥギャザー」といった所だ。
ほとんどのダンス・ホールは午前零時には閉店するシステムだったが、深夜まで営業するナイト・クラブ形態の店もあった。当然両者のシステム、客層は異なるのである。
ダンス・ホールにはプロ、セミ・プロ、アマチュアのバンドが入っていて、ほとんどが複数のバンドが交替で約40分のステージをこなしていた。普通彼らの事を「ナカズのバンド」と言っていた。オリジナルはやらないが、コピーは完ぺきかそれ以上に上手いバンドが多かった。アメリカでヒットしている曲を国内盤のレコードが発売される前に、ダンス・ホールで演奏するという離れ技をやってくれるバンドもいた。
複数のバンドがいる場合、相手のバンドをタイバンと言っていた。店の専属バンドになる事をハコ、専属のバンドをハコバンと言っていた。また、ハコバンのメンバーが仕事を休むときは、代わりのミュージシャンを用意しないといけないのだが、そのピンチ・ヒッターのことをトラと言う。このような言葉を使っている連中を見るとアマチュア・バンドは、艶つけてと思う反面そうなりたいとも思っていたものだ。
GS(グループ・サウンズ)全盛の時代がやってくると、有名になったグループが出演する事もあった。タイガース、テンプターズ、ゴールデン・カップスといった有名グループも博多のダンス・ホールにやってきた時代もあった。ほとんどのグループがそれぞれの地方のダンス・ホールで演奏しているところをスカウトされたのだから、不自然な事はないのだが、演奏する曲は衣裳と同じように変わっていった。
踊るために、それもステレオから聞こえてくるレコードではなく生バンドの演奏で踊れるのだから、レコードをあれこれかけて踊ったり、しゃべったりするディスコやクラブとはまったく違う空間だった。ただし、下手なバンドはお断りだけど。
博多だけでなく、東京や大阪にも当然ダンス・ホールはあって、そんな所で演奏していたバンドがスカウトされて、GSのレコードを出していったのだが、沢田研二がいたタイガース、萩原健二がいたテンプターズ、寺尾聡がいたサベージ、モップス他にもジャガーズなんかが若きグループ・サウンズとして人気を誇っていたが、博多のハコバンも彼ら以上に上手いバンドがいくらでもいた。
「あなたが欲しい」がヒットしたハプニングス・フォーや「霧の中のマリアンヌ」のレオ・ビーツは博多のダンス・ホールでやっていたバンドだ。クリスタル・キング、ニック・ニューサ、山下久美子らの先輩達だ。
我らが菊が若かりし頃やっていたバンド“キース”にもGSとしてのレコード・デビューの話しが持ち上がっていた。しかし、ロックをやり続けたい菊はこの話しを断っていたのだ。 とにかく、下手なバンドは長続きしないのだから、妙竹林なイクイップメントなんかない時代に実力のあるバンドがいっぱいいた。チューナーなんて物もない時代のバンドは、最近のバンドにはないものを持っていた、そんな時代だった。

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