キングスネーク伝説

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Legend of KingSnake

【世はまさにニュー・ミュージック】

 Simon & Garfunkelの"Sound of silence、Beatlesの"Hey,Jude"、Rolling Stonesの"Jumping Jack flash"そしてOtis Reddingの"Dog of the bay"が巷をかけめぐていた年も過ぎ、ウッドストックとアクエリアスの年がやってきた。
僕はこの年、七隈大学へ進学したが、入学式に行く車のラジオでエルヴィスのライブ(一連の復活コンサートのきっかけとなった)のレコードがかっていたのを、シガー・ライターによる火傷の痛さとともに今だに覚えている。エルヴィスのロックンローラーの牙は数年間の映画生活が、彼からぬき去っていたので、エンターテイナーとして活躍していく彼の久々のステージだった。
ミュージック・ライフの写真を中心とした音楽情報に少々飽きてきていた僕が目にした小雑誌が有った。ロックをミーハー的に捉えずに、精神性や文化として見ていこうとする「ニュー・ミュージック・マガジン」が、1968年の4月から発刊された。
その体裁はA5版で数ミリの薄さとカラー・ページもないものだったが、「目の色は、好きな色は」 記事がなく、商業ベースを嫌っていたニュー・ロック、アート・ロックにはうってつけの雑誌だった。どうでも良い事なのだが、レコード評もメンバーの紹介とかほとんど無く意味不明な怪文章も有ったが、100点満点による点数制だった。点数の付け方が片寄っているとか、根拠がどうとかといった投書が寄せられてもいた。
編集長中村とうよう氏の記事はニュー・ロックの位置づけに有効だったかも知れないし、小倉エージ氏はウエスト・コースト・サウンドやシンガー・ソング・ライターをたくさん教えてくれたし、日暮泰文氏達は後に最初のブルース・ブームを巻き起こした。
ニュー・ミュージック・マガジンの興味深い記事は、ニュー・ミュージック・マガジン主宰の第二回日本ロック大賞にはっぴいえんどの1stアルバムが選ばれた事(ちなみに第一回は岡林信康の「私を断罪せよ」だった)に対し、内田裕也が「ロックは日本語では歌えない」とはっぴいえんどに叩き突けた事を発端とする日本語ロック論争だった。
アメリカ産の音楽だから、当然本場で受け入れられないとホンモノではないと言うようなものだった。 「日本語でロックを歌う事=テレビのザ・ヒット・パレード」となり、歌謡ポップスでしかないと僕も思っていた。はっぴえんどはロックっぽいサウンドに日本語を乗せる事によって、それまでの歌謡曲ではない新しいポップスを目指していたのだろう。
キャロルもチャック・ベリーの曲に日本語をうまく乗せて歌う事によって、ビーズ、T−ボランひいては写乱Qにいたるロック歌謡の礎を作ったと言って差し支えない程度だ。日本語ロックは、最近の例では王様が歌うディープ・パープルのような滑稽さか、しょせん本物には勝てないカバーだと僕はキメツケていた。
この日本語ロック論争、ニュー・ミュージック・マガジンのみならず、はっぴいえんどが日本語のロックを確立したという記事で終わったが、あれはニュー・ミュージックのはしりであってロックではないと思っている。内田裕也のロックは英語でないとやれないという意見を指示する期間が、僕の心の中では少なくともあと4年は続くのだった。
日本語がロックにマッチしたのはサンハウスのオリジナルが最初だと決めつけている僕は当時、ロックは絶対に英語しかない!だった。
 ところで、ニュー・ミュージック・マガジンは現在も発行されているが、創刊当初の読者の多くは、今レコード・コレクターズを買っているのだろう。常に新しい音楽を追求するのがニュー・ミュージック・マガジンなのだ。でも、レコード・コレクターズもカーペンターズ特集号以来、もう買う事がなくなった。

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