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博多のロックバンド
このテキストはFM局であるクロスFMの番組『GOT MANY』にて
オンエアーされた1時間番組を書き起こしたものである。
1960年代中頃は、全国的にエレキ・ブームによって猫も杓子の代わりにエレキを持つ時代であり、そろそろ出てくるグループ・サウンズの先駆けともなるダンス・ホールの時代だった。
博多では「ヤング・キラー」「フォーカス」「赤と黒」「ナイト・パレス」などのホールでセミプロ・バンドがダンスミュージック(ヒット曲やR&Bのカバー)を演奏していた。
折りから捲き起こったグループ・サウンズの大流行は博多のホールからも1967年の終わり頃、「あなたが欲しい」がヒットしたハプニングス・フォーや「霧の中のマリアンヌ」のレオ・ビーツがデビューした。
ヒッピーが現れはじめ、サイケデリック・サウンドが大流行し始めたこの年を境にロックは商業路線とそうでないものとに別れていった。
ダンス・ホールのバンドの中には、特に米軍基地内のクラフ・ハウスで演奏していた連中は、この新しいロックにひかれていった。キースの柴山もその一人だ。しかし、ヒットしていない曲を演奏しても客が、踊れないと言い出し店は誰でも知っている曲をやれと言い出す始末だ。キースはテレビに出た事もあり、ミュージック・ライフの地方のバンドの欄にも登場した。
1970年秋、そんな連中ばかりが集まって一つのバンドが出来た。当時風に言えば、スーパー・セッション・バンドSON HOUSEの登場である。
今でこそ、ブルースはレゲエと同じように非常にポピュラーな音楽となっているが、4半世紀前は、博多に住んでいるアメリカ白人がブルースを知らないという時代だった(体験談)。
サンハウスはブルースをやるために作ったバンドだった。
普段はホールで踊れる曲もやるのだが、思いっきりブルースをやる機会をうかがっていた。彼らが初めてダンス・ホール以外の場所で演奏したのは1971年夏、天神のジャズ喫茶COMBOだった。
九大学館ホールやパーワー・ハウスなどでライブを重ね、1972年5月20日、初のワン・マン・コンサート“Son Rise”を行い,ライブバンドとしての活動を開始した。
1973年3月12日には、その後長崎、北九州でも数回行った伝説の“SON HOUSE SHOW”を開催し、その名を決定的なものとした。
その頃のサンハウスはブルース一辺倒のバンドだったが、柴山の歌と鮎川のギター・ソロはブルースロックと云うような感じだった。九大学館ホールの真夜中のライブで、ジョン・リー・フッカーの「ブギー・チレン」を延々40分演奏した事もあった。
1973年3月12日、“SON HOUSE SHOW”のライブ・テープからブルース・バンド・サンハウスのサウンドを2曲。
M1: Dust My Room(Elmore James)
M2: Rolling Stone(Muddy Waters)
サンハウスは、結成後一年位してオリジナルを作った。初めてのオリジナル「蛇の歌」と云う曲はすぐにタイトルを「キング・スネーク・ブルース」と改められ、「レモン・ティー」と並ぶサンハウスの名刺がわりとなった。
彼らはパワー・ハウスを拠点として地道なライブ活動を続けながらも「SSON HOUSE SHOW」「Hello SON HOUSE」といったワンマンコンサートの開催や、イベントに出演しながら、11973年から1974年にかけて柴山、鮎川のコンビはオリジナルを量産していった。 1974年には、天神に有ったヤマハ・アビー・ロード・スタジオや松屋スタジオ(松屋に有った)でデモ・テープのレコーディングを何度も行った。
1975年1月15日、ついにサンハウスはデビューシングル「地獄へドライブ/キング・スネーク・ブルース」を夢本舗のDレーベルからリリースし、四千枚が即座に売れた。
その年の6月にはデビューアルバム「有頂天」を、1976年6月25日には2ndアルバム「仁輪加」をリリースした。その後も、ツアー(「ブラックツアー」「ザ・ツアー」など)やコンサート活動を続けていたが、東京等のライブ・ハウスにも出演していた。
1977年春、夢本舗を離れ、自らの事務所ハウス・オフィスを設けて活動を続けていたが、1978年3月25日、3rdアルバム「Drive/SON HOUSE」リリースの日に柴山と鮎川はサンハウスの活動に終止符をうつ事を決定した。
1978年10月に鮎川は、シーナ&ロケッツとして「涙のハイウェイ/恋はノー・ノー・ノー(作詞:柴山俊之、作曲:鮎川誠)」でデビューし、11月にはエルヴィス・コステロのオープニング・アクトとして全国ツアーを行い、博多でも初々しい姿を見せてくれた。
また、サンハウスの最初のドラマー浦田賢一も自らのバンドSHOT GUNで同じ月にデビューした。サンハウス・ファンにとっては、二つのバンドと作詞家柴山俊之のデビューは久しぶりの贈り物となった。
作詞家柴山俊之は、シーナ&ロケッツ、A.R.B、陣内孝則、松田優作、三好鉄生、アン・ルイスをはじめ多くのバンドやシンガーに市を提供していったが、彼のボーカリトとしての血は沸々と煮えたぎっていた。サンハウスの再結成だけでなく、センチメンタル・フールを経て現在は、Rubyというものすごいロック・バンドを率いている。
M3: なまずの歌(作詞作曲:鮎川誠)
1974年、アビーロードスタジオでの録音
M4: ベンand マイヤー
1974年9月9日 FCSスタジオ。ある店のコマーシャル・ソング
M5: すけこまし(作詞:柴山俊之、作曲:鮎川誠)
1976年12月24日、BIG TOGETHERでのライブ。
3rdアルバム“Drive”のアウト・テイク
Brokedouw Engineはサンハウスの二人目のドラマー、鬼平こと坂田紳一がいたバンドだが、津和野がギター、ボーカル、プロフェッサー堺がベース(途中で抜けた時期が何度か有る)としてメンバーの交替も激しかったが、現在に至っている。
ダンス・ホール時代にはサンハウスのタイバンとしても活動していた。
このBrokedouw Engineと共に忘れてはならないのが、田舎者だ。田舎者の延長であり、ほぼ同じメンバーだったドリルと山善&ミッドナイト・スペシャルを聞いてもらう。
M6: エンジンふかしてぶっとばせ
1976年1月11日明治生命ホールでのライブ
リズムセクションは梅林茂(B)羽山慎也(Ds)
M7: ドリルのテーマ
ドリル。詳細不明
M8: Around and around
山善&ミッドナイト・スペシャル、1983年頃、新宿ロフトでのライブ。
ゲスト・鮎川誠の他、ルースターズの大江慎也、花田裕之、アキシデンツの原島
元ロッカーズのメンバーも入れ替わりステージに上がった。
サンハウスが解散して間もなく、フォークのメッカ照和ではモッズやロッカーズかデビューを目指して頑張っていた。開戦前夜の森山達也と浅田孟しバンドを解散し、浅田は田舎者へ入り、森山はモッズというバンドを結成した。
1970年代後半に英米で捲き起こったパンクの嵐は日本にも定着し、モッズ初期のステージではパンクの代名詞ジョニー・サンダースの曲なんかをやっていたが、彼らは1981年5月にデビューした。モッズのデビューの少し前にロッカーズもデビューしていた。
博多のサンハウスの影響は東京(赤と黒、ボーカル黒岩は田川出身)、大阪(ツイスト以前の太金きんた)はもちろん小倉でも新しいバンドを生んだ。 ルースターズは1980年11月にレコード・デビューしたが、1stシングルのB面の曲「恋をしようよ」。
サンハウスと云うよりも菊とデヴィッド・ボウイを思わせる南浩二の「涙のジョーカー」の派手なギターが入っていないバージョン。
M9: 恋をしようよ
渋谷エッグマンでのライブ
1stアルバムの半年ほど前にレコーディングしたデモ・テープ。リリースされたテイクでは全編にギターがフィーチャーされているが、このテイクはそれとは違うムードを出している。
作詞:柴山俊之、作曲:南浩二のコンビにる曲なのだが、デヴィッド・ボウイとルー・リードの雰囲気もチラッとして嬉しい。この曲のボーカルはそうでもないが、南の歌は菊を彷彿とさせるのがたまらなかった。
M10: 涙のジョーカー
M11: Kid Are Alright
1975年夏のスタジオライブ
M12: Twistin'
SON HOUSEは、海援隊と一度だけ共演し、その後海援隊の希望で三人のバックを一度だけやった事しか照和との関係はなかった(個人的には、浦田賢一が海援隊の1stアルバムでドラムを叩いたことがある)。
しかし、照和に出ていた田舎者、モッズ、ロッカーズのサンハウスに対する気持ちはこのなうなものだったのだろう。
田舎者の1974年スケジュール・ノートには・・・
「自分達なりにプレイ出来て良かった***中略***サンハウスを追い抜くのも、もう時間の問題。練習量の問題、がんばるぞ」
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